【中3刺殺事件】中3刺殺事件から考える!学校現場の今と昔!教育現場の激務が巻き起こす子どもたちと生じてしまうズレ!

教育

中3刺殺事件でいじめがあるとかないとか、アンケートに記入とかどうとか、いろいろなことがわかってきました。
今回は学校現場ではどのような方法でいじめを把握しているのかについ考えていきたいと思います。


1 いじめ把握

学校現場ではどの校種でも毎月月末に「学校生活アンケート(名前は各校で違う)」というものを行っています。
それはその月に嫌なことをされていないか、嫌なことをされている人を見ていないか、何か不審な出来事がないかを調査するものです。
それはいじめだけでなく、家庭で虐待を受けていないかなども調べるために使われています。
今回の中3刺殺事件では、当初「トラブルは把握していない」と学校側が説明していましたが、その後の会見で逮捕された生徒が2年生のときのアンケートに「いじめがある」と回答していたことがわかりました。
どうして最初の会見では「トラブルは把握していない」と学校側は説明したのでしょうか。
これは現場の怠慢と思われがちですが、発見が難しいという考え方もできます。
学校現場ではそれらアンケートにたくさんの情報が書かれています。
小学校で言うと「○○くんにバカって言われた」「○○さんに死ねって言われた」など本当にさまざまな情報です。
今のいじめの定義はずいぶんと細かくなって、かつては
「それはお互いさまでしょ、休み時間にサッカーのゴールしたとかしてないとかでトラブルになってお互いに死ねって言い合ったんなら、2人で謝って終わり!」
となっていたようなことが、今ではそれはお互いがお互いからいじめを受けた案件として取り扱います。
だからアンケートに書かれたことはほとんどの場合は市町村教育委員会に情報として上がります。
また、保護者の方にもくわしい事情を説明します。
そうすると大抵の場合は「それはお互いさまなので・・・」と両者から言われて経過観察となるのです。
重大案件でない場合は、その後3ヵ月程度様子を見てはじめて解決となるわけです。
学校現場ではそのようにいじめ把握を行っていますが、今回はおよそ1年前の2年生の話です。
毎月アンケートが回収され、それを保管しているのですが、そのときに軽いと判断された案件だったので流されてしまった可能性があります。
事件が起こった年度であれば、すぐにアンケートを見て状況把握しやすいのですが、直近でなかったため把握しきれていなかったということが考えられます。
「そんなのなんで軽度で捉えるんだ!アンケートの意味がない!」
と感じると思います。
確かにそう思います。
ですが、その背景にはこのようなことが考えられるのです。
一つは「細かいことまでいじめと捉えよ」という状況がそうさせている事実があります。
先にも書いたようにたとえば「死ねって言われた」と書かれていたものは、大きさに関わらず「いじめ」として情報を市町村教育委員会に送り、家庭連絡や本人同士の聞き取りなどを行います。
もしもそのような細かい情報が1回のアンケートで5,6件出てしまった場合はどうでしょう。
小学校だとすると1学年3クラスで6学年あったとすると18クラス。
18×5=90件。
これは極端な例ですが、可能性として絶対にないとは言い切れないのが今の現場の状況です。
アンケート上は見た目が同じ内容なのに、その中に軽度な案件と重度な案件が混ざっていたら、区別がつけられない可能性があります。
本人にも聞き取りをしたけれど、謝罪があって、その時に解決したように見えてしまうかもしれません。
いじめアンケートというのは機能しているようで機能していないという課題も浮き彫りになってしまいました。
きっと事件のあった中学校だって、アンケートをおろそかにしていたわけではないと思います。
このご時世ですから、慎重に扱っていたのは確かです。
でも把握しきれないほどの情報と、それを解決したことにしたら、それ以外に追われる激務が学校現場を圧迫しているのだと思います。

2 家族と他人

先日の報道でタレントのカズレーザーさんの発言に共感が集まっています。
「この学校の校長先生がこの事件の後、わが校は家族のような関係をもった・・・っておっしゃったんですけど、(生徒たちは)たまたま同じ場所に生まれて、同じ年齢だったっていう他人の集合体」
という持論を展開しました。
確かにそうです。
学校というのは結局は育った環境の違う者同士が集まり、たまたま同じクラスになって、たまたま次の学年では違うクラスになり、生活しています。
「苦手な人がいても仕方ない」「気の合わない人がいても仕方ない」
そのような状況が生まれるのは当然のことです。
社会に出れば会社で苦手な同僚がいる、嫌いな上司がいるなんてのは普通のことです。
体を壊す前に折り合いをつけて会社を辞めるとか、信頼する仲間に相談するとか、全く関わりを持たないとか、やり過ごす方法はあります。
でも学校では
「クラスのみんなと仲良くしよう!」
「誰とでも仲良くしよう!」
と伝えます。
それはそれで当然のことだと思います。
学校でそのような「温かさ」を教えるのは大切なことだからです。
でも「苦手な人がいたときの逃げ方」も教える必要はあると思うのです。
「いじめはいけないよ!」は当然のことですが「いじめはしないし苦手な人がいてはいけない」と捉える子だってきっといるはずです。
学校では苦手な人ともわかり合おうでも、社会に出たらどうしてもわかり合えない人がいる・・・だから包丁で刺す。
という方向にはいかせないためには、やり過ごし方を教える必要はあるのだと思います。
今の子どもたちは同年代の子がyoutubeなどで活躍しているのを見ているので、その子たちや自分の共感している歌詞を書いているアーティストを「神」と呼びます。
小学校高学年くらいから思春期がはじまるので、そのような「神」に影響を大きく受けるのです。
その「神」の考えがネガティブなものだと・・・その子もネガティブな考え方をするようになります。
そしてその子たちは人とは違うという自分を求めます。
学校ではただただ家族のように仲良くすることや誰とでも仲良くすることを教えるだけではいけない時代になっているのかもしれません。
人との接し方や回避の仕方を教える必要はあるのではないでしょうか。


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